伊勢物語と源氏物語、パリピとなろう系

前置き

閲覧ありがとうございます。前回の記事から足を運んでくれた人、とても少ないと思いますが、お久しぶりです。主にセカイ系ライトノベル川原礫先生の作品を取り上げた記事を書こうとしていたのですが、最後まで仕上げることができませんでした。何か一つ書き上げたいということで久々に何か書こうということで、至った次第です。初めましての方、最後までお付き合いください。楽しんでいただけたら幸いです。

 

今風に解釈する伊勢と源氏

今回取り上げるのは伊勢物語源氏物語の二つの関係です。中古文学を代表する二つの物語には、非常に深い関わりがあります。様々な研究や意見があり中古文学の研究テーマの代表といってもいいくらいでしょう。今回はその二つの関係を今風の言葉で僕らオタクにとっつきやすく触っていきたいと思います。最終的には、古典の知識があまりない人や、ここから興味を抱いていただいた人に、この二つの作品がどういう位置づけなのか、どういうところが評価されている原因なのか、なんとなくでいいのでわかっていただければと思います。

 

伊勢物語に対する先入観

伊勢物語は「歌物語」というジャンルの代表でしょう。学校で習ったことを思い返してイメージしていただける人も多いかと思います。主人公とされる在原業平の生涯を和歌とともに描いた素晴らしい物語です。しかし、そこにはある種の先入観が潜んでいます。それは、平安貴族に対する、あるいは、昔の日本の物語に抱く「風流風雅、豪華絢爛」なイメージです。確かに伊勢物語は歌と主人公の男の立ち居振る舞いをはじめ、雅びさを極めた作品であることは確かです。ですが、それだけで終わらないのが伊勢物語です。主人公の男は女好きで、違う女性に毎回のように手を出すというのは有名な話かと思います。ほかにも、節目には狩りに出かけ、女性に対しても、覗きをしたり、女性を誘拐したり、非常にアグレッシブです。これが、先ほど述べた先入観との相違点です。ここがタイトルにある「パリピ」要素ということになるわけです。いかにも貴族らしい雰囲気とは違う、粗々しく男気あふれる話が伊勢物語の本質の大きな要因を占めているというわけです。それは主人公の一面でしょうという考えを抱く方もいらっしゃると思いますが、そこは本編を見ていただきたいところです。深く読めば読むほど、主人公のスピード感や男らしさが前面にあふれているということがご理解いただけるかと思います。

 

源氏物語がなぜ日本一の物語なのか

源氏物語は日本古典の最高峰、歴史上で最も評価されている文学作品といえるかと思います。読んでみたいという方もいらっしゃると思います。私は源氏に関して、専門的に深く学習しているわけではありませんが、前述の内容と絡めて「良さ味」を紹介していきたいと思います。源氏物語伊勢物語が書かれた後に書かれた物語です。初めに大雑把な結論をポイントを述べてしまうと、源氏物語の凄味というのは紫式部の「センス」です。伊勢は男らしさの話というように先ほど述べましたが、紫式部は女性の側にもスポットを当てようとします。伊勢では女性に関しての描写は最小限に抑えられ、主人公の活躍が話の中心です。源氏は女性の視点からの描写も非常に豊富ですし、キャラクターとしての密度がすごく濃いです。ここがまず非常に画期的で、とても「今風」です。そして、一番重要なのが主人公の光源氏のキャラクターです。光源氏は伊勢の主人公と比べて、全く対極といってもいいような立ち位置にいると言えます。放蕩するようなことはなく、落ち着いた、まさしく雅さを体現していると言えるでしょう。あくまで私のイメージですが、具体的に一緒に想像してください。かっこいいのはもちろんですが、伏し目がちな、上品な、でも大事な局面でしっかりと気持ちを示す。とても魅力的です。そして、最近のサブカルチャーに見られる主人公が持ち合わせる特徴と似通っている部分がとても多いです。オタクの(源氏が書かれた当初の環境で言えば文化人の)あこがれを集約しているというところも同じです。このようなデザインのキャラクターで、なおかつ重苦しく複雑なストーリーを、伊勢物語全盛期の時代に、伊勢と真逆の方向に完璧に完成されている、ここが源氏物語がもてはやされた理由の一つだと考えられます。こういう作品を発明した紫式部の「センス」がここにあるわけです。タイトルを踏襲するならば、パリピからなろう系へ、王道な男らしい主人公像から、多面的な主人公像への変化があるわけです。

 

終わりに

見ていただいてありがとうございました。うまくまとめられた気がしませんが、もともと思いつきで書き始めた感じなので、消化不良をおこされた方がいたらごめんなさい。少しでも興味を持っていただけたらとてもうれしいです。ご意見ご感想はTwitterのほうに送っていただければとても喜びます。また何か書きたいですね。

どうして「君の名は。」ではなく、「秒速5センチメートル」なのか。

どうして「君の名は。」ではなく、「秒速5センチメートル」なのか。

 

 

僕は君の名は。を映画館で見てから、秒速5センチメートルを視聴しましたが後者のほうにとても惹かれました。一方で終わり方を好いていない人や、前者のハッピーエンド?を好んでいる方がたくさんいるように感じられました。ですので僕がどうして、後者を好きなのか、どういうところが好きになったのかを書いていきたいと思います。

以下ネタバレ、拡大解釈、個人の好みによる批評等々含みますので注意してください。

僕はどんな作品も個人の好き嫌いがすべてだと思っている人なので、作品を直接批判する意図はございません。

秒速5センチメートルは秒速と表記

 

 

1二つの作品間における奇跡の扱い

君の名は。は離れ離れになった二人が偶然か必然なのかは別として、再開します。そのような運命だったと言われてしまえばそれまでですが、就活中や奥寺先輩とのシーンなどの描写から、明るい方向に運命が回っているという風には解釈できませんでした。そこで、秒速との差別化を図るようなラストシーンにつながります。そこまでの過程があまり明確ではないと感じたので、奇跡という言葉を当てさせてもらいました。

それに反して、秒速のほうは離れ離れになった二人はなあなあのまま再開することなく物語は終わります。秒速の第一話の最後の貴樹の独白や、お互いに手紙を渡せないところからも自然な結末に感じられます。また、手紙が飛ばされてしまうのも、神の悪戯のようで、奇跡と相反した現実感があると思います。

僕の感覚だと、君の名は。は目の前に偶然落ちてきた奇跡によって話が終局することに対する違和感があって、秒速を見てそれが解決されるような気がしました。奇跡なんて起こらない圧倒的な現実の前に屈しながら、それでも前に向くあのラストシーンはとても魅力的に感じました。山崎まさよしさんの楽曲との演出も素晴らしいと思いますが、その「One more time,One more chance」の歌詞でも いるはずもない となっています。歌全体を通して、自分のすべてを懸けてもどうしようもない現実を美しく表現しているのではないかと感じました。君の名は。はそこで 起きるはずもない 奇跡が起こりますから、そこを自然に受け止められるかが物議の原因なのではないでしょうか。

                               

 

2作品の雰囲気、リアリティ

新海監督作品の作画はリアリティに秀でていてどちらの作品にもとてもマッチしているように最初は感じられました。ですが先ほど述べた、君の名は。を初めて見た際の違和感の一端はこの作画から来ているのだと秒速を見たときに気が付きました。君の名は。の映像が人を惹き付けるのはリアリティではなく、彗星や自然をオーバーに、かつ納得できるすれすれのラインを通すことで生まれてくる、アニメの映像美の極致にあるからだと思いました。僕もとても好きです。雰囲気アニメばっかり見ている身なので。対して、秒速の映像は1で述べたように、非情な現実を表現していく内容にリアリティを追っていくような絵は、君の名はと全く逆の方向で素晴らしい効果を発揮していると感じました。

そのように整理すると、君の名は。のほうは作品の方向性がぶれている、あるいは無理をしていると考えられます。(メルヘンな話に無理やり絵を合わせていて、最大限効果を発揮できていない)これが上記の違和感、もやもやした感覚につながっているのかと思います。

 

 

3キャラクター

両方の作品ともに作品で最も重要なのは貴樹と明里、瀧と三葉は言わずもがなです。男の子が女の子に働きかけるという見方をすると、ベクトルも似ています。ですが、結果は真逆です。瀧は最終的に災害から人々を守り三葉と再開しますが、貴樹は誰とも結ばれることなく、傷つけているという見方もできます。王道の中の王道といった風の瀧にくらべ、貴樹は平凡な人という印象が際立ちます。ですが、僕はそこに魅力を感じました。ベターでカッコイイ主人公像に飽きてしまったといわれればそれまでですが、彼の魅力は目新しさがある(ある意味平凡な人というのもやりつくされていますが)というわけではありません。今風の人間の懊悩や苦しみを背負っているところや、1で述べたような運に翻弄されるところが、切なくて目を奪われます。また、僕に魅力を感じさせる、親近感と人間味を生む一番の要因となっているのは彼の自分勝手さだと思います。一見彼は他人を尊重しているように感じる方も多いと思いますが、僕の目には利己的に映るような描写が多くあります。明里との電話や、第二話での周りの人を意に介さず遠くを見つめているような描写、三話でのメールのやり取りなどがそれに当たります。特に二話の貴樹が宇宙?を見ているシーンは彼の人格を象徴しているように感じます。彼の世界の中には他人はもちろん、明里でさえも最終的には不必要だったのではと感じさせられてしまうほど印象的です。三話のメールのやり取りでは、彼の自分本位なところがより形を帯びて、お互いに距離が縮まらないという結果を招いているのかなと思います。優しくはあっても、他人のための思いやりとは違い、自分の足場を安定させるための優しさ、言い方を変えれば甘さしか彼は知らなかった。あるいは知っていても実践できなかったのかもしれませんが。自分も持ち合わせているこの汚さに彼を通じて強く意識させられたとき、この作品をより一層好きになりました。

 

まとめ

繰り返しになりますが、現代チックな人の苦しみを抱えた登場人物たちのどうしようもまく纏まらない現実というものが、作品として形を成していること。僕はそこに強く惹かれました。ここまで創作物に対して、本物のリアリスティック?というものを感じたことがなかったからだと思います。僕の読書歴等が未熟だから面白くない作品を過剰に評価しているという批判もあると思います。ですが、もろもろのことを抜きにしても、とても素晴らしい作品だと僕は感じました。

以上になります。 分かりにくい部分、感覚的な説明がたくさんあると思いますので、なんでもいいのでございましたら、ツイッターのほうへお願いします。@neoerua 感想もお待ちしております。言葉遣いが統一できてなくてごめんなさい。僕 で書き始めたのをすごく後悔しています。